駆け抜けた”天才” ジル・ビルヌーブ (最終回)

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1979年、ウエスト・ロングビーチでのジル。このときのUSグランプリで、ジル・ビルヌーブは優勝を果たしている。
(写真は"autosport.com"より)

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感動を与え続けてくれたジルに深く感謝!

だが、翌1982年、第4戦のサンマリノ・グランプリ(4/25)で、同僚のピローニがオーダーを無視(「STAY」のサインも無視)して、最終ラップでジルを抜き去り優勝、このことが両者のあいだに抜き差しならぬ感情を生んだという。

ジルにすれば、1979年に、ジョディ・シェクターの王者への道に一役買ったのと同様、こんどはジルのチャンピオンにピローニが同じことをすると信じていたのである。それがまた、オーダーという意味にジルはとっていた。温厚でなっていたジルが激怒したという。

そして迎えた第5戦ベルギー・グランプリ(ゾルダー・サーキット)の公式予選日(5/8)。怨敵となったピローニのタイムを破るべく、アタックを開始したジルだが、全力で疾走する前にヨッヘン・マスのマーチ・フォードがいた。

1977年の日本グランプリ・レースを再現するようなシーンがそこに生まれた。ジル・ビルヌーブのフェラーリは宙を舞って、その後地面に叩きつけられ、自身もコクピットから投げ出されてしまったのだ。享年30歳の生涯であった。
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話は1979年に遡る。
この年の最終戦・東アメリカ・グランプリの予選第1日めのことである。ワトキンスグレンのコースは、滝の中のような悪天候に見舞われていた。誰もコースインしなかった。しかしジルは、2種類のタイヤ・テストのため飛び出して行った。ジルの後、何人かが続いた。だが、彼らはすぐにピットインした。

「とても走れる状態じゃないよ。すぐにコースアウトしちゃったよ」ジルが戻ってきた。
そしてこう言った。「1万以上まわしてみたよ。タイヤはOKさ」
ジル・ビルヌーブは東アメリカの決勝レースに勝った。
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この縞を書き続けているうちに、分かったことを付記しておこう。
性格は、F1デビューの年は、温厚で素直、いつも笑顔で受け答えする青年だったと、いわれる。したがって、文中にもよく出てくる”オーダー”に関しても、素直にそれを受け入れ、実行に移した。

だからこそ、チームメイトの違反は、裏切りに捕え、深く傷ついたのだといわれる。また、後年は、チャンピオンの座に執念を燃やし、性格も変わっていた、というジャーナリストもいた。

それはともかく、ジル・ビルヌーブの評価は、テクニック、人間性共に、今でもF1ジャーナリストのあいだで高く、ファンも”崇拝者”が多い。

それは、マシンがどんな状態にあっても、最高のものを引き出そうとする、真摯な努力の姿がドライビング・テクニックに現出され、それが人々の共感を生んできたからではないかと思われる。

F1グランプリが低迷期にあった時期に、人々に感動を与えてくれたことに深く感謝したい。

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67戦出走、優勝6回。

(完)

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モーターレーシング歴史館より

※記事中のジルの生年月日、年齢に関しては、「モーターレーシング歴史館」掲載時のままです。ここに記されている生年月日は、ジルが公表していたプロフィールによるものであり、実際には1950年生です。

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1979年、雨のワトキンスグレンのサーキットを疾走するジル・ビルヌーブ
(写真は"autosport.com"より)

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