崇高の騎士 アイルトン・セナ (最終回)

セナ・プロ対決ラウンド2.

鈴鹿サーキットのパドックで行なわれた「1988年日本グランプリ祝勝会」で、セナは本田宗一郎氏と固い握手をした。心なしか、その眼は潤んでいた。

振り返ってみれば、スタートで出遅れたセナが猛然と追い上げを敢行し、ついに先行するプロストを射程距離にとらえた。その時、天の恵みか、曇り空から雨が降ってきた。

ウェット・コースを得意とするセナは、27周め、直線でプロストと並び、そして1コーナーまでに抜き去って、そのままゴールに飛び込んだのだ。

劇的な勝利と、そして掴んだワールド・チャンピオンの座。感激にむせんだとしてもなんの不思議もないが、少なくとも勝利の大部分を占める信頼できるエンジンを提供してくれたホンダ、その総帥であり、F1の大理解者である本田宗一郎氏の温厚な人柄に接した時、感涙したのであろう。

こうして1989年も、セナとホンダ、マクラーレン・チームと同僚でありライバルでもあるプロストとの関係はつづいた。

一説では1300馬力を発生させた、ともいわれるターボ・エンジンから、レギュレーションの変更で一転して自然吸気方式(NA)になった1年め。ホンダはV10を選んだ。ルノーもV10,フェラーリは相変わらずのV12であった。

マクラーレンMP4/5ホンダV10を駆ったセナは、この年、ポールポジション13回、優勝6回で得点60。いっぽうプロストは、ポール2回、優勝4回で有効得点76。着実な走りで2位を6回も取ったプロストがチャンピオンとなった。

翌1990年、前年とマシン(マクラーレンM4/5Bホンダ)、態勢共まったく変わらぬ陣容でグランプリに臨んだセナは、ポールポジション10回、優勝6回、2位・2回、3位・3回で得点78。2回めのワールド・チャンピオンに輝いた。

89年、90年とセナ、プロスト両者は共にチャンピオンの座を分けた。だが、ふたりのバトルはシーズンを通して激しさを増し、その結果、両車が接触してはじけ飛ぶシーンがあった。鈴鹿でも、その光景は見られたが、それはここでは触れまい。ふたりは、今となっては”真のライバル”そのものであった、ということで充分であろう。

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パーティ会場で勝利を祝い合う本田宗一郎氏とアイルトン・セナ。
写真:1991 F1日本グランプリ・プログラムより


ホンダがV12エンジンを投入、しかし

1991年、ホンダはそれまでのV10からV12エンジンにスイッチ、マクラーレンはMP4/6へと進化した。

セナは、鈴鹿でこそ2位になったが、シーズンを通して7回の優勝で得点96を挙げ、文句なし、3度めのチャンピオンとなった。こう記すと万全の勝利と思われるかもしれないが、内実は開幕4連勝(ハイパワー・エンジンにものをいわせ)こそあったが、序々にウイリアムズのマシンに追い上げを食い、その座を脅かされていたのである。

92年、ホンダはさらに進化した(というよりも新設計の)V12エンジンを投入したが、MP4/7Aシャシーは、これを支え切れず、アクティブ・サスで固めたウイリアムズ・ルノーに苦杯を嘗めた(セナ/ランキング4位)。それでも、開幕5連勝とアッケなくセナの記録を塗り変え、6連勝に迫るウイリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルとセナのモナコ・グランプリでの死闘(テール・ツー・ノーズの戦い)は、セナの全力を尽くしたテクニックに支えられた勝利となっている。そして、この年の中盤、ホンダはワークスの、F1からの撤退を宣言することになる。

強力なホンダ・パワーから、一転、非力なフォードV8搭載マクラーレンMP4/8に乗らざるを得なくなった93年シーズンのセナ。だが、逆境に強いセナの真価発揮というべきだろう、1位・5回という離れ業でランキング2位(73点)となっているのは特筆に値する(鈴鹿では2位)。

1994年、セナはウイリアムズ・チームの一員となっていた。総帥フランク・ウイリアムズとの呼吸も合っていた。セナはウイリアムズFW16・ルノーを巧みに操り、初戦ブラジル・グランプリ、つづく岡山県・AIDAサーキット(パシフィック・グランプリ)とポールを取つづけながらも、いづれもリタイアとなった。

そして必勝を期して迎えた第3戦のサンマリノ・グランプリ。ここでも予選をトップで通過し、決勝を走ったセナだったのだが......

(完)

Shell
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セナのF1レース、主だった記録
優勝回数:通算41回
チャンピオン獲得回数:3回
出走回数:161回
ポールポジション回数:65回
ファステストラップ回数:19回
生涯得点:614点
etc.

モーターレーシング歴史館
より


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